海隣寺と佐倉の千葉一族 2

◆関東の戦国時代の開始とともに、海隣寺は酒々井へ、そして現在地へ

前回の続きです。

関東の戦国時代の開始とされる享徳の乱の結果、お家の分裂により馬加系千葉氏が本佐倉城を居城とします。そのあたりの経緯は、こちらのページでPDFをダウンロードしてご一読いただければと思いますが、その折、幕張から本佐倉城周辺のどこかに海隣寺が移転されました。
この事業は、馬加康胤の正当な後継者をアピールしたい岩橋輔胤存命中の出来事だったのではないかと思います。もっといえば、本佐倉城が築城された1480年前後、というのが妥当かと思っています。
さて、この後時代は進み佐倉千葉一族の衰退期の頭領である千葉親胤の時代、今の本佐倉城とは別に、現在の佐倉城址公園(歴博に隣接している巨大な公園です)のあたりに、別途城を築城しようという動きがありました。
海隣寺にあった案内板には、この親胤の時代にあった築城(計画?)にあわせて、海隣寺は現在の地に移転してきた、という説明があります。
この親胤という頭領は、暗殺により若くして世を去っております。その結果、新城築城については計画段階で終わったか、もしくは中途半端なところで中断したかされた、というのが現在の定説のようです。しかし、その前に海隣寺だけは現在の地に移転された、ということですね。戦国末期の千葉氏は、まさに混乱期に入っておりまして、当時の状況がわかる資料がほとんど残っていないとのことで、たぶんこのあたりの詳しい事情はこの先もわからないかもしれません。
さて、この海隣寺にはたくさんの佐倉千葉氏の慰霊塔がありますが、その中に佐倉千葉氏の歴代惣領である、昌胤、利胤、親胤、胤富、邦胤、重胤のものがある、という情報が、現地の案内に書かれていました。実は、これらの宝篋印塔や五輪塔を探して、ずいぶん境内の中をうろうろしてしまいました。
さんざん探した後、境内の奥にあった小さな出口から外に出て右、市役所方面に進む狭い道を行くと、左手に小ぶりの墓地があって、その奥にまさに「ひっそりと」彼らの慰霊塔が横一列に並んでいます。遠目に見ると、銚子砂岩独特の黄色い色彩を放つ慰霊塔群は、とても綺麗で新しいものに見え、「慰霊塔のイミテーションか?」と疑ったくらいです。
この記事を読んで海隣寺に行かれる方がもしいらっしゃるようであれば、「千葉氏の慰霊塔郡は市役所に隣接している墓地にある」という情報だけでも覚えて行ってください。これらの塔を見ることができれば、おそらく感動するはずです。
次のページでは、いよいよ写真を紹介します。ここまで、マニアックな内容にお付き合いくださってありがとうございました。

>>海隣寺と佐倉の千葉一族 3写真編

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