海隣寺と佐倉の千葉一族 1

◆はじめに

海なんて、見えない佐倉に海隣寺。
いきなり七五調で失礼しました。かつては銚子から続く巨大な内海の一部であった印旛沼ですから、まあ海といえなくはないですが、このあたりは当時でもほとんど淡水だったわけですし、海と呼ぶにはちょっと無理があります。
今、私達が見る海隣寺は、佐倉市役所正面向かって左側にあります。しかし、大本の海隣寺は、今の幕張のあたりにあったということを知る人は、あまりいないのではないでしょうか。幕張ならば海に面していますから、海隣寺なんて名前の寺があっても納得です。
今回は、海隣寺が建立された言い伝えと、このお寺が馬加系千葉一族とともに佐倉に移ってきた経緯について紹介した後、海隣寺の写真を掲載します。
内容がちょっと細かすぎですので、マニアックな部分は飛ばして写真を見ていただければ十分かもしれません。

◆鎌倉幕府成立直後に、千葉常胤によって建立されたとする伝説

府馬清が昭和五十九年に著した本に『千葉氏とその一族の興亡 星の巻』というものがあります。
室町成立時の活躍から滅亡までの千葉一族の歴史を、読みやすい散文調で著した珍しい本で、内容も専門的になりすぎず、歴史書が苦手な方でも楽しんで読めるのではないかと思います。ただし、やはり古い本ですので、現在の定説とは若干食い違う部分もある(たとえば、本佐倉城を築城したのが馬加康胤としていたりします)ために、そのまま鵜呑みにするわけにはいきません。
そんな難点を考慮に入れても、機会があれば是非ご一読いただきたいおすすめの本です。
さて、この本の中に、海隣寺の縁起が紹介されていますので、その部分を引用します。

【以下引用文】
海隣寺は文治二年(1186)十月、千葉常胤が初め千葉郡馬加村(千葉市馬加)に建てたもの。常胤が一族をつれて、海辺で月を見ていたところ、月光に輝く阿弥陀仏の金像を発見したので、この寺を建てて、この金像を安置した、という。初め真言宗だったが、千葉貞胤が時宗に改宗し、貞胤の子氏胤のとき、堂宇を佐倉に移した。現在、佐倉市役所の隣にあるが、ほんの小さな寺で、全盛期の面影はない。もと、この寺の境内だったと思われる、市役所の敷地内に、千葉家の墓碑が並んでいる。
さて、貞胤は観応二年(1351)正月一日、京都で他界した。六十一歳であった。貞胤の木像が、常胤の木像とともに、海隣寺に安置されている、という。
【以上引用文】

「月光に輝く阿弥陀仏の金像」、ぜひ一度でいいからその姿を観たいと思うのですが、現存してはいないのでしょうね。海隣寺の掲示板には、この阿弥陀仏を「海上月越如来」と名付けたとあります。そんなすばらしい名前の阿弥陀仏なら、ますますその尊顔を拝見したいと思うのが人情ですが、たぶん開帳するようなことはないのでしょう。残念です。
しかし、貞胤と常胤の木像ならばあるのかもしれません。チャンスがあれば、ぜひ拝見したいと思っております。
なお、上の引用文の「氏胤の時代に堂宇を佐倉に移した」とするのは、おそらく間違いです。馬加系の千葉一族が佐倉と関係しはじめるのは、ギリギリでも馬加康胤からで、普通に考えると康胤の跡を継いだ岩橋輔胤の時代と考えるのが妥当だと思われます。
いずれにしても、海隣寺の移動の経緯は、現地の掲示板他、いろいろな資料を総合して考えると
幕張→本佐倉城周辺のどこか→現在地(佐倉市役所の隣)
という道筋になりそうです。

>>海隣寺と佐倉の千葉一族 2

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