佐倉城址公園の馬出し空濠と椎木門(しいのきもん)

◆はじめに

歴史民俗博物館と城址公園については、一回ではとても書ききれないほどの規模があります。というわけで、このブログでは見所ごとに個別ページをたてて書くことにしました。不定期ですが、コツコツ更新していきます。

今回は歴博の建物からみると南側に位置する「馬出し空濠(からぼり)」と「椎木門(しいのきもん)跡」について紹介します。
位置関係は、下の図で確認してください。余談ですが、この元になっている図は佐倉市の公式サイトにある「佐倉城址公園について」というページのPDFデータです。城址公園を散歩する際に印刷して持参すると、とても便利だと思います。

馬出し空濠と椎木門の位置を確認してください。
馬出し空濠と椎木門の位置を確認してください。

◆馬出し空濠について

空濠の前に、説明用の看板がたっています。この看板、どうも舌足らずな感じがします。説明では
『城門前に築いて人馬の出入を敵に知られぬようにした土手が馬出しであります。』
とあります。これを読むと、私などは「そうなると、戦闘時にはこの空堀の中に人馬を隠したわけか?」と思うわけです。しかし、それは完全な間違い。そんなことをしたら、上から敵の矢の餌食になって一瞬で全滅してしまいます。
馬出しというのは、城門の外からの攻撃に対して防御力を高めるための設備です。
追って説明しますが、この「馬出し空濠」の後ろに「椎木門」がありますので、その門の防御力を高めるための設備が、この空濠のある意味です。
下の図を見ていただくとわかりますが、もし城門に続く道になんの障害物もなければ、平時は便利ですがいざ戦争となった場合、簡単に城門を破られてしまいます。

そこで、敵が攻めにくくするための工夫として、重要な門の前に土塁を築いたり、堀をめぐらせたりしたわけです。堀があれば、敵はストレートに椎木門にはたどりつけない。堀を迂回して横から攻めてきた敵に横矢を射掛けるなどして撃退する。
仮に今この空濠に沿って土塁がめぐらされていれば『人馬の出入りを敵に知られぬようにした』という看板の説明は正しいのですが、少なくとも平成の世にはそんな遺構はないので、ここで指摘させていただきました。
ちなみに、椎木門跡の前に建っている看板には「馬出し空濠」の前に侍屋敷の図が描かれておりますので『城門前の遮蔽物』は、それらの侍屋敷が担っていたことになりますね。

馬出し濠の外側は侍屋敷があったようですね。
馬出し濠の外側は侍屋敷があったようですね。

◆馬出し空濠の写真

先述の看板には、この空濠は明治初期にできた連隊の使い勝手を考慮し、いったん埋められた旨が書かれております。後に佐倉五十七連隊と呼ばれることになるこの施設は、明治から昭和にかけての戦争の歴史において、戦地に送り出される兵士たちの過酷な運命を見続けることになるのですが、それは今回の稿の趣旨ではないのでまたの機会に。
看板には「長辺121メートル、短辺40メートルのコの字型、深さ5.6メートルと確認されました」とあります。長辺と短辺の長さは昔のままとし、深さを3メートルにとどめたそうです。深さが浅くなったのは、おそらく安全上の配慮でしょう。
写真撮影のポイントは上にあった図のとおりです。

下の写真、クリックしてみてください。

◆椎木門

看板に椎木門が在りし日のモノクロ写真がありました。こういう心遣いがあると、とてもうれしいですね。当時のありようがイメージしやすいです。
「北面、木造、本瓦葺、二階造り梁間三間、桁行七間。前面に馬出しが設けられていた。」
とあります。この門と馬出しの関係は、先述したとおりです。

歴博側(椎木門の外)から本丸方面を撮影
歴博側(椎木門の外)から本丸方面を撮影
本丸側(椎木門の内)から歴博の建物を撮影
本丸側(椎木門の内)から歴博の建物を撮影
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