勝胤寺。千葉勝胤と佐倉惣五郎の伝承 4

◆勝胤寺と佐倉惣五郎の伝承「地蔵堂通夜物語(じぞうどうつやものがたり)」

勝胤寺から京成線をくぐるとするにあるお地蔵様。このあたりに、かつて勝胤寺の地蔵堂があったという。
勝胤寺から京成線をくぐるとするにあるお地蔵様。このあたりに、かつて勝胤寺の地蔵堂があったという。

国破れて山河あり、ではありませんが、本佐倉城が落ちた1590年以降も、山や河と同様当然ながら勝胤寺も残り、家康から寺領として20石を安堵されました。
そして江戸時代が到来し、佐倉藩藩主が堀田正信公の時代であったころ、佐倉惣五郎の事件がおきたとされています。17世紀の中頃におきたとされる事件ではありますが、本当のところいったい何が起きたのか、確たることが書かれた一次資料は一切ありません。
このあたりの経緯については、以前書いた記事に詳しいのでそちらにゆずりますが、今回紹介したいのは、この佐倉惣五郎の物語としてもっとも有名な「地蔵堂通夜物語」の舞台となったのが、この勝胤寺の地蔵堂だったという話です。ちなみに、現在書物の中に描かれている地蔵堂はありませんが、当時地蔵堂があったとされるあたりに、当時のものとされるお地蔵さんが建っています。
この「地蔵堂通夜物語」の成立年代は、およそ18世紀の半ばといわれていますので、事件発生から約100年もの月日が流れた後書かれたということになります。
この話の書き出しは、ある修行僧がたまたま勝胤寺に立ち寄った折、住職さんに近くの神社の由来を聞くところから始まります。住職さんがその修行僧の質問に答えて曰く「今日は庚申様の日ですから、村人たちがここに集まって夜通し起きていることになります。夜は長くなりますので、ゆっくり語って聞かせましょう」
というわけで、その夜に住職さんが地蔵堂で語った話が、その神社に祀られている義民惣五郎の悲劇だった、という流れになります。
勝胤寺建立が16世紀半ば。惣五郎の事件がおきたとされるのは17世紀半ば。勝胤寺地蔵堂を舞台に惣五郎の事件が物語として成立したのが18世紀半ば。私がこのお寺の前にたつとき、戦国時代から江戸中期までかけた三百年という壮大な歴史の流れを、どうしても感じてしまうのです。
地蔵堂通夜物語は、インターネットで引けば今でも簡単に購入できますし、佐倉の図書館ならばどこでも借りることができると思いますので、ぜひご一読ください。とても読みやすい口語訳になっております。

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    l (火曜日, 27 6月 2017)

    omosiroi