佐倉藩主堀田家のミッシングリンク、角来の馬頭観音について 4

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まず、加える要素の一つ目として、時代背景があります。この江戸中期という時期は、町民の文化が花咲く一方で、農民は凶作と増税に苦しみ、各地で一揆が発生していました。この時期、もちろん佐倉藩領内でも農民たちの不穏な動きが発生していました。
もう一つが、この「正亮の馬の手綱を引く老人」の物語の骨組みが「堀田家と惣五郎の和解」である、という点です。
これらの要素を足しあわせ考えると、かつて「農民のヒーロー」として殉死したとされる惣五郎にかかわりの深い堀田家が佐倉藩藩主に着任したわけですから、この「危険な時期」を乗り切るためにも、なんとしても正亮の代に悲劇を清算し、惣五郎との和解をアピールする必要があった裏事情が見えてきます。その意味で、ここでは惣五郎の物語のどこまでが事実か、という点は問題ではありませんでした。農民たちの間で語られていた物語こそが、この時期の堀田家にとっては「解決すべき重要な懸案事項」だったのです。
その文脈で考えると、角来の馬頭観音は、先の伝承とセットにすると、農民と堀田家の間にわだかまる緊張関係を解消するためのシンボルとして作られたことがわかります。
もう少し俯瞰すると、将門山での祭祀は「堀田家から惣五郎への積極的な慰霊行為」であるのに対し、この馬頭観音をめぐる伝説は「惣五郎から堀田家への許し」がテーマになっているという点で、対をなしているわけです。
また、上の理屈でいえば、この馬頭観音が「前期堀田家と後期堀田家」をつなぐ役割を担っているという点も、見逃すわけにはいきません。いわば惣五郎が仲介役となって、正亮に正信の馬を祀らせた、という流れを作ったということになるわけです。
少々大げさな表現をするならば、八十年以上の不遇の時代を耐えた後、「二つの堀田家」はこの馬頭観音によってはじめて明示的につながったともいえるのではないでしょうか。

◆おわりに

国道296号線を車で走ると、八幡神社の前のあたりでようやく佐倉城があった台地が視界に入ります。それまでは、右手にある高台の上の家々に遮られて、佐倉城を望むことはできません。
かつてこの道が江戸とつながる街道として利用されていた時代も同じ地形をなしていたとすると、江戸から佐倉へ下る際に最初に佐倉城を間近に見ることができたは、まさにこの地だったわけです。
そのように象徴的な意味を持つ土地だからこそ、伝説の中で「馬が頓死」し、また「藩主以外見えない謎の老人」が現れたのかもしれません。
この馬頭観音の祠の中には、「馬頭観音」と揮毫された木彫の額が飾られています。この額のために筆をとった人物は、昭和に入って市長を四期勤められた堀田正久と記載されています。額にあるとおり、これは昭和五十六年にものされたようですね。正久は、昭和五十年まで市長を勤められたそうですので、この書は公職を退いて六年後に書かれたものです。
この小さな観音のために筆をとった昭和期の堀田家当主の胸に去来した気持ちを知ることはできませんが、この観音が担った重要にして象徴的な意味を、深く感じながら筆をとられたのではないでしょうか。

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