佐倉藩主堀田家のミッシングリンク、角来の馬頭観音について 3

◆伝承「佐倉藩主正亮の佐倉入りと角来の老人」と正亮の治政

ここからしばらくは、史実と伝承が入り混じった話になります。
1746年の8月、正亮は、佐倉藩藩主就任後はじめて佐倉の地に訪れます。
さて、正亮の一行が角来の坂のふもとに建つ八幡神社の前を通っていると、正亮の前に一人の老人が現れました。
その老人はおもむろに正亮が騎乗する馬の手綱をとると、黙って佐倉城の大手門までついてきました。
その後、正亮が家来たちに「角来のあたりからついてきた老人は誰だ」と問いただしましたが、家来の誰一人、その老人を見た者はいませんでした。正亮は不審に思いさらに家来に尋ねていると、家臣の一人が「その老人は、惣五郎の亡霊だったのではないでしょうか」と言いました。
正亮はそれを聞くと「そんなことはあるまい」と笑ったそうです。
しかしその後、正亮は惣五郎を将門山の口之明神に祀り、毎年2月と8月に盛大な祭典を行なうようになりました。そしてこのとき、かつて堀田正信の馬が死んだ角来の地に、その馬の供養のために馬頭観音を建立した、と言い伝えられています。
以上の話の中で「史実」と確定できるのは

  • 1746年に正亮が帰藩したこと
  • 正亮が惣五郎を将門山の口之明神に祀ったこと
  • 正亮が正信の馬の供養のため、角来の地に馬頭観音を建立したこと(ただし、今祠にある馬頭観音の板碑はおそらく当時のものではないと思われる)

です。

以上のような伝承含みの話は、もちろん「紀氏雑録」のような公式の文書に残っているわけではありません。しかし、この話が言論統制も受けずに語り継がれていることや、少なくとも将門山での祭祀や馬頭観音は正亮時代からの文化遺産であること、などとともに、さらにいくつかの要素を加えて考えると、興味深い点に気付かされます。
>>佐倉藩主堀田家のミッシングリンク、角来の馬頭観音について 4

八幡神社の上から佐倉城の舌状台地を臨む。左端は歴博。赤い印が、だいたい佐倉城があったんじゃないかと思われる箇所。地元の人は「御三階」と呼んでいたそうです。
八幡神社の上から佐倉城の舌状台地を臨む。左端は歴博。赤い印が、だいたい佐倉城があったんじゃないかと思われる箇所。地元の人は「御三階」と呼んでいたそうです。
道路側から八幡神社へは、この急な階段を登る必要あり。けっこう、地味にきつい。
道路側から八幡神社へは、この急な階段を登る必要あり。けっこう、地味にきつい。
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