佐倉藩主堀田家のミッシングリンク、角来の馬頭観音について 2

◆伝承「惣五郎の物語」と正信

馬頭観音正面
馬頭観音正面

さて、そんな堀田正信が佐倉藩主だった時代に、あの有名な「佐倉惣五郎の事件」がおきたとされています。ちなみに、この事件については、当時の公的な文献は残っていません。
今、我々が知ることができる「佐倉惣五郎」の話は、事件が発生したとされる時代から実に100年近い年月が流れた後に書かれた「地蔵堂通夜物語」という書物がベースになっているのです。その100年もの間、この物語は「口伝」により、地元の人の間で語り継がれてきたとされています。
たとえば、この記事を書いているのは2014年ですから、百年前といえば1914年(大正3年)。第一次世界大戦が勃発した年と重なります。仮に、大正三年に発生した事件が今日まで語り継がれ、ようやく書物になったとしたらどうでしょう。その物語のどこまでが事実なのかを知るのは、事実上不可能です。
佐倉惣五郎の物語は、そういう背景があるということを、まず頭に入れて考える必要があると思います。ただ、この物語は角来の「馬頭観音」を語るうえで、どうしてもはずせない鍵になる部分ですので骨組みだけお話しすると、

  • 正信が佐倉藩主だった時代に木内惣五郎という名主がいた
  • 佐倉藩の厳しい年貢のとりたてに耐え切れない農民たちの代表として、惣五郎が幕府に佐倉藩の年貢減免を要望する直訴をした
  • 結果、惣五郎の願いは聞き入れられ佐倉藩の年貢の率は下げられたが、惣五郎以下妻、息子たちは極刑に処された

といった感じの、惣五郎という義民の悲劇の物語です。
物語はこの後、惣五郎の呪いにより、堀田家に禍がふりかかり、結果藩主は発狂する、というような筋になっていくわけですが、この「藩主の発狂」は、先に説明した「正信の幕政批判に関する一連の沙汰」を暗示するような書きぶりになっています。
また、この惣五郎の伝承については実にたくさんのバージョンがあるのですが、その中のいくつかに、正信が発狂して江戸から一人馬を走らせて佐倉へ向かったところ、角来の坂の途中で馬が疲れきって死んでしまい、そこから佐倉城までは歩いて行った、とするものがありました。
この伝承が、角来の地に馬頭観音が祀られることになる鍵になるわけです。

◆事実としての佐倉藩主後期堀田家のはじまり・堀田正亮

さて、前章でお話した堀田正信の幕政批判と失脚から、堀田の一族は苦しい時代を送ります。正信の直系は、先の問題で堀田家の嫡流から外れ、堀田宗家は正信の弟である堀田正俊に変わります。そしてこの人物は、いったんは徳川綱吉に畳用されるのですが、その剛直な気質から綱吉にうとまれるようになり、また幕府内での意見対立から若年寄の稲葉正休に江戸城内で刺殺されてしまいます。
この後、宗家である正俊の一族は幕府で冷遇され、つらい時代を送ることになりました。
風向きがかわったのは、正俊の孫の代に生まれた正亮が、堀田宗家を継いだあたりからです。
この時、将軍は徳川家重で、家重にとっては父である吉宗が推進した「享保の改革」による増税と凶作が原因で、各地で一揆が多発していた時代でもありました。
この難しい時代にどのような政治力学が働いたのかは定かではありませんが、とにかく正亮は、奏者番→寺社奉行→大阪城代という重責に次々に抜擢されます。その後も、実に破竹の勢いで幕府内で政治の中心にくいこんでいき、1745年、ついに老中にまで上り詰めます。
そしてその翌年の1746年、幕府内での役職は老中のまま、佐倉藩藩主に任命されたのでした。堀田家としては、正信から数えて八十年余りが経った後の、「悲願の帰藩」だったのではないでしょうか。
>>佐倉藩主堀田家のミッシングリンク、角来の馬頭観音について 3

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