甲斐武田最後の当主、武田信吉(のぶよし)は、近世佐倉の初代領主だった 2

前回の続きです。

さて、武田宗家を継いだ武田信吉は、1590年、今の松戸市にあった小金城に入ります。
さらにこの人物、秀吉の正室である北政所(きたのまんどころ)おねの血筋の娘を妻に迎えるという、すごい運命を背負った人生を歩んでおります。
家康の息子にして甲斐武田宗家嫡子、北政所の血筋の女性を娶る。信吉、どこにいっちまうんだ?という感じです。
そして、1592年、信吉は佐倉の地を与えられたのでした。
近年の調査で、そのころの信吉の館の位置がわかってきているようです。古図に、信吉の幼名である万千代様の屋敷が「大堀館」だった、と書かれていて、発掘調査でその屋敷跡が、今のトライアルがあるあたりだった可能性が高い、とされているようです。
なるほど、あのあたりも、印旛沼から見ると高くなってますね。かといって、本佐倉城のような天然の要害でもない平べったい土地です(当時はもう少し違ったのかもしれませんが)。もはや、戦国が終わったことを象徴する立地だったといえなくもない感じです。
さて、その信吉ですが1600年の関ヶ原の戦いでは、江戸留守居役で江戸にいたそうです。家康の息子なら関ヶ原で初陣を、とも思いますが、どうやらこの人物、生来身体が弱かったようです。
その後、1602年、信吉は常陸国水戸25万石に封ぜられました。
しかし、その翌年、病弱だった信吉は、弱冠20歳でこの世を去っております。
信吉は、北政所の血筋の妻との間には子をなさなかったため、ここで武田宗家はついに断絶してしまうのでした。
この後、江戸時代18世紀初頭に武田家は復興するのですが、それは勝頼の盲目の兄の流れですので、宗家は信吉でいったん絶えた、ということになっているわけです。

ここから先は、2011年5月発行の「広報佐倉」の記事である「新佐倉錦めがね」に掲載されている内容を参考にしつつの記述になるのですが、本佐倉城のあるセッテイ山の近くに、諏訪神社があります。また、本佐倉城や酒々井には、双体道祖神が多くみられます。諏訪神社にしても、双体道祖神にしても、武田氏の勢力下に多く見られるものであるそうです。
※双体道祖神の分布については、鈴木英恵氏の論文(←PDFデータです)に詳しいので、そちらを御覧ください。
資料による裏付けは無いようですが、それらの文化や信仰に、武田信吉の関与があると考えると、新旧の血統と家名を一身に背負って短い生涯を終えた信吉の姿がかいま見える気がして、少しだけ心が暖かくなるというか、うれしくなるというか、そんな気にさせられます。

追記
信吉が最初に入った下総小金城の周辺に双体道祖神がないものかとネットで検索したところ、やはりありましたね。松戸在住の方がやっているブログで、 松戸の千駄堀地区にある双体道祖神が紹介されてます。道祖神がある正確な場所はわかりませんが、小金城から距離にしてだいたい4kmくらい。千葉県では、 双体道祖神はめずらしいようですので、もしかするとこれも信吉が持ち込んだ文化なのかもしれません。信吉にとってみればたった二年しかいなかった松戸の地 ですから、ちょっと考えづらいのかもしれませんが、そういうことを考えるのも楽しいですよね。

追記の追記

このブログでも何度か取り上げた「ちばの観光まるごと紹介」という千葉県が運営しているサイトに、武田信吉と松林寺に関する記述がありましたので紹介いたします。以下、斜体箇所抜粋文です。

『毘沙門像は、大佐倉の陣屋に徳川家康の五男、武田信吉を祀ったのを最後に、松林寺に奉納されたと伝えられています。』

このサイトの前後の文脈では、この「毘沙門像」について触れていないために推測するよりほかないのですが、武田信吉を祀るために毘沙門像が用いられ、結果松林寺に奉納された、と読めますが、どうなのでしょうか?もし詳しいことを知っておられる方がいれば、教えていただけると嬉しいです。

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