千葉一族の分裂と鎌倉府、古河公方について 2

前回の記事では、鎌倉公方と関東管領は、そもそも宿命的にいがみあう構造だった、という話しをしました。
結果、ある意味では足利尊氏の思惑通り、この役職についた二人は、代々牽制しあう仲になりました。
しかし時代は進み、室町も中期を迎えるころには、鎌倉府の中ではいがみあいが先鋭化し、一触即発という状況になる。15世紀に入ると、お互いが殺しあうという事態に発展していきました。
そして15世紀半ば、ついに動乱の火蓋が切って落とされることになります。
鎌倉府のナンバーワンは、足利将軍家の血を継ぐ足利成氏、対するナンバーツーが、関東管領の上杉憲忠で、この二人がとにかく仲が悪かった。結局、足利成氏は、鎌倉のとある屋敷で上杉憲忠を謀殺してしまうのでした。この事件が発端になってはじまる動乱を『享徳の乱』(1455年。ただし、この事件が起きたのが旧暦の12月末ということもあるため、そのあたりの事情を勘案し1454年の末と表現する学者もいる)といい、この事件をもって関東の戦国時代が開始したとされています。
その『鎌倉府の内ゲバ』が飛び火して、千葉一族も真っ二つに割れます。
上杉方についたのは、惣領の千葉胤直一派、足利方についたのが千葉氏の庶流である馬加康胤とその仲間、という対決軸です。
この戦いは、緒戦は上杉憲忠を殺した足利方に有利に進みます。上杉憲忠を殺した成氏は、その余勢をかって上杉の与党の武将を次々に破っていきます。まさに連戦連勝、破竹の勢いです。
この後も足利成氏は関東各地を転戦するのですが、あんまり鎌倉を留守にしていたものですから、この間に駿河の今川氏に鎌倉を乗っ取られてしまう、というピンチに追いまれてしまいます。
その結果、足利成氏は鎌倉を捨てて、今の茨城県古河市にあった古河城に動座することになったわけです。
これをもって、足利成氏は『古河公方』と呼ばれるようになり、成氏の子孫たちも同様に古河公方として、関東の戦国時代の主役の一角を担うことになっていきます。

また、この享徳の乱発生の一年後、先に話した馬加康胤の一味が、千葉本宗家の居城亥鼻城に夜襲をかけて、結果多古で胤直公を自害に追い込むことになるのです。
先に書いたとおり、ここで千葉家本宗家は滅亡してしまうのですが、自害した胤直の弟に二人の息子がおりまして、この二人はなんとか生き延びることに成功します。
そして、この二人が逃げていった先が武蔵の地、つまり今の東京なので、彼らのことを『武蔵千葉氏』と呼びます。
というわけで、この段階で千葉一族は、馬加系の『下総千葉氏』と、本宗家の弟の息子という意味では庶流の『武蔵千葉氏』に分裂することになるわけです。
結論を言ってしまうと、『武蔵千葉氏』はいろいろと政治工作をするのですが、夢かなわずついに千葉本家に返り咲くことなく、戦国武将としての歴史の幕を閉じます。

以上のような理由で、この一連の騒動の後『千葉宗家』を名乗るのは『馬加系千葉氏』となり、居城は本佐倉城と定まった、というわけです。

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