千葉一族の分裂と鎌倉府、古河公方について 1

先日アップした小篠塚城の記事について「古河公方って、なに?」という素朴な疑問をお問い合わせいただきました。確かに、突然「古河公方」っていわれても、なんだかわかりませんね。
下に、鎌倉府やら古河公方やらといったものが、そもそも何なのか、ということについて、千葉一族の分裂の経緯とあわせて紹介します。
加えて、千葉一族ってそもそもなに?ってことについては、私がまとめた冊子用PDFデータを下にアップしましたので、そちらをダウンロードしてお読みください。だいたい一時間くらいで読みきれる分量です。これを読むと、千葉一族のおよその歴史がお分かりいただけるかと思います。
なお、こちらの資料を何か(学校の教材とか勉強会の資料とか)に使いたいと思われる方がおられましたら、お問い合わせ窓口から用途をお知らせください。データとして利用いただく、もしくはダウンロードしたデータをご自身でプリントして使っていただく分には、費用はいただきません。著作権者として、利用用途を知っておきたいという思いからのお願いです。
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千葉一族盛衰記
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千葉一族の分裂と鎌倉府、古河公方について 1

千葉一族は、室町中期にお家の内紛で分裂して、結果千葉宗家は滅ぼされてしまいます。
このとき、千葉の惣領である千葉胤直(たねなお)を、今の多古町で自害に追い込んだのが、幕張を本拠地としていた馬加康胤(まくわりやすたね)で、この人も結局室町幕府の追討軍に攻められて、今の市原市のあたりで討ち死にしてしまいます。時はまさに戦国時代、めまぐるしく主役が交代していきます。
その後、馬加康胤と血縁関係にあった岩橋輔胤(いわはしすけたね)という人物が、すったもんだの末に千葉宗家を名乗ることになります。
この輔胤という人物が生きていた時代に、千葉の本拠地は今の千葉市中央区亥鼻から、本佐倉城に移ることになります。
さて、時間をちょっと戻して、そもそも千葉一族が内紛をおこしたきっかけについてなのですが、これは『鎌倉府』の内ゲバが原因なのでした。

『鎌倉府』というのは、簡単に言うと室町幕府の関東出張所です。
室町幕府というのは、『大名の寄り合い所帯』という性格が強く、とても全国を治める力はありませんでした。そんなわけで、西日本は幕府がなんとか運営するけど、東日本は別の組織を置こうじゃないか、と足利尊氏が置いた出先機関が鎌倉府です。
鎌倉府の初代長官(後の俗称は鎌倉公方)は、足利尊氏の息子の足利基氏(もとうじ)です。
さてそこで、苦労人の足利尊氏は考える。息子とはいえ、関東の権力を一手に握る役職を作ってしまうと、後に禍を残すことになるかもしれん。関東には、長官と拮抗する権力をもつナンバー2を付けることにしようぞ。
そこで、『権力拮抗策的強力なナンバー2』として執事(後の関東管領)を置き、その役職を代々上杉家が継ぐことになります。
そんなわけで、鎌倉府はその成立当初から、トップである鎌倉公方と二番手の関東管領がいがみ合うことを前提に作られた組織だったのでした。

>>千葉一族の分裂と鎌倉府、古河公方について 2

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