さて、今回は、佐倉市にある吉川英治ゆかりの場所について紹介します。
一つ目は、吉川英治の生母が生まれた場所です。
臼井駅方面から佐倉に向かい、国道296号線をいくと、坂を登り切った正面左側が江原台です。現在は、聖隷佐倉市民病院が立地していることで市内の人にならばある程度知名度があるエリアですが、それ以外はいわゆる一戸建て住宅が立ち並ぶ静かな住宅街です。
臼井方面から江原台を入ると、バス通が「逆コの字型」に江原台を走っています。その、2回めの角の近くを右に入ると、もうすぐ近くです。
さて、いくの生家があった場所は、今は江原台自治会の会館が建っていて、残念ながら当時の面影はありません。しかし、この会館の前に石碑が建っておりますのでそちらを紹介いたします。
ちなみに、いくの父は山上辨三郎(やまがみべんざぶろう)といい、初代の臼井町の町長を勤められたそうです。臼井町というのは、かなり地元ネタになります が、「臼井村、臼井田町、臼井台町、角来村、江原村、江原新田村」が合併して「印旛郡臼井町」として1889年(明治22年)にできました。この後、
1954年(昭和29年)に、「印旛郡佐倉町、志津村、弥富村、根郷村、和田村」と合併して、佐倉市というまとまった一つの市になりました。
いくは、山上辨三郎の三女として生を受け、この地で娘時代を過ごしたそうです。
所在地:佐倉市江原台1-9-4 江原台自治会館前
江原台を後にして北に向かうと、印旛沼方面へ降りるゆるい勾配になります。そこから線路を超えて西印旛沼を目指すと、竜神橋のたもとに、吉川英治の歌碑があります。
取材をしたのが冬の朝だったこともあり、写真が逆行で残念な感じですが、この石に彫られている歌は
「萱崖(かやがけ)は母のむねにも似たるかな 高きを忘れただぬくもれり」
とあります。
確かに、今でも印旛沼のほとりには萱(ススキ)が群生しておりますので、英治がこのあたりの風景を思い出して詠んだ歌なのかもしれません。もしくは、江原台のいくの生家のあたりから印旛沼方面をみると、昔はくじらの背のようなゆるい高台があったそうなので、そのあたりに群生していた萱の丘を思いだしてのことかもしれません。
萱の季語は秋ですから、秋の夕日に黄金色に淡く輝く萱の丘を母の胸になぞらえ、遠くからその景色を見つめた英次(英治)少年の幻のような遠い記憶、なんて考えるのはどうでしょうか。いや、少々センチになってしまいました。
次回は、いくのご実家の菩提寺である嶺南寺をご案内いたします。
その他の写真です。クリックすると、ずいぶん大きくなります。先日、問い合わせ窓口から「もう少し写真を大きくできないか?」と問い合わせをいただきました。そういう声には、元気づけられます。このサイトも、読んでくださっている人がいるんですね。感謝。
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