佐倉、吉川英治、江原台のはなし 1

吉川英治といえば、日本でも屈指の歴史、時代小説家です。
日本の歴史小説の書き手で、ぱっと思いつく小説家はだれ?
と質問されれば、上位五人のうちの一人には入るのではないでしょうか。今はちがうのかな?よくわかりませんが。
代表作は、『宮本武蔵』、『新・平家物語』、『私本太平記』など。私は、宮本武蔵と新平家物語は読みました。
宮本武蔵に関して言えば、これまた日本を代表する漫画家の井上雄彦氏の『バガボンド』の原作として有名です。両方を読むと(特にバガボンドの後半は)、原作と漫画とは物語としてはずいぶんかけ離れておりますが、どちらも共に読み応えのある面白い物語です。
さて、今日はその吉川英治が、実は佐倉市とおおいに関係がある人物である、という紹介をさせていただきます。

結論からいってしまえば、吉川英治の母「いく」は、佐倉藩士の娘として、いまの佐倉市江原台に生まれているのです。旧姓は、山上といったそうです(出典「草思堂から」)。
江原台といえば、江戸時代は佐倉藩のお菜園があった場所です。お菜園では、佐倉城で食べる野菜や薬草が作られていたそうですので、いくの生家のまわりにも、畑があったのではないかと思います。

ちなみに、1970年ころまで、江原台は宅地造成されておらず、お菜園の状態がそのまま残されておりました。江原台の北側はゆるい下りになっていて、その先に印旛沼が広がっておりますが、その沼側に面した北側一帯から今の聖隷佐倉市民病院あたりは、ずうっと雑木林が広がっていて、当時はリスや狸やウサギがわいわいいやっていたそうです。

元へ。いくの夫は、旧小田原藩士である吉川直広という人物で、いくは直広の後妻であったようです。
この直広という人物が実にいろいろなことをやっていた人で、牧場経営をやって失敗したあと寺子屋を開き、その後はじめた貿易商でようやく生活が安定したのもつかの間、経営者と喧嘩して訴訟騒ぎをおこし、敗訴して刑務所にまで入るという、まさに波瀾万丈の人生。いくさんは、さぞ苦労したろうと思います。
さて、吉川英治は、本名は英次(ひでつぐ)といい、若干10歳にして雑誌に短編小説を投稿するなど幼くして才能を開花させていました。
けれど、父の浮き沈みの激しい人生に翻弄され、英治自身も小学校を中退して、職を転々とします。18歳のときには、船具工としてドッグで働いている折、作業中船底に墜落し、重傷を負っています。実は、私の父は船乗りで、父から何度かそういう事故について聞かされたことがあります。ドッグで、作業者が船底に転落する事故はわりとあるらしいのですが、結構な確率で死に至る大事故になるそうです。若かりし日の吉川英治が、そのとき亡くなっていても不思議ではなかったわけです。
その後の吉川英治については、Wikiなどに詳しいので、ご興味のある方はそちらでご確認いただくとして、彼の書いた小説が講談社で入選したあたりから、人生が好転しはじめます。しかしこのころ、彼の最愛の母いくが亡くなりました。吉川いく、1921年、大正10年没。合掌。
講談社や毎日新聞から小説執筆の依頼が多数舞い込んで、またたく間に売れっ子の時代小説作家になった吉川英治の初期の代表作は、『鳴門秘帖』という小説です。この小説、幕末期の公儀隠密と倒幕をもくろむ徳島藩主・蜂須賀重喜との戦いを描いた冒険活劇で、撃剣の激しい戦いあり、恋愛ありの面白い小説です。
この後、『宮本武蔵』などの小説を書き上げ、第二次大戦後は日本の敗戦の絵鏡として『新・平家物語』を書いたようです。
没年は1962年、70歳でこの世を去りました。

次回は、ちょっとしたエピソードを交えながら、佐倉市に残る吉川英治ゆかりの地などを紹介いたします。

>>佐倉、吉川英治、江原台のはなし 2

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